「指を置く」展に行ってきたって話。
ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)
第330回企画展
「指を置く」展 佐藤雅彦+齋藤達也
行ってきました。
「メディアとは自分はないものとすること。」
自分の指を介在することで生まれる
能動的なメディアっていうのもおもしろい。
今回は紙媒体での展示だったけど、
これはスマートフォンなどの媒体で何か考える際のヒントになりそうな展示でした。
たまたまギャラリートークが始まる前の時間に行っていたのもあって
多少空席ありとのことのなので聴講したんだけど
そこで話されていたことと、サイパンに向かう飛行機の中で
友だちと話していたことと少しリンクすることがあったのでメモ。
どんな風に記憶しているか?が鍵
Filmarksという映画レビューサービスで、
しばらくの間、自分の今まで見た映画をひたすら探しては
レビューしまくっているのがマイブームだったんだけど。
そんな話題から、印象残ってない映画ってレビューかけなくない?みたいな話があって
「映画って、内容もそうだけど観たときのエピソードが強くない?」って私は返したんだ。
これはレビューを書いていって気がついたことだったけど
印象があろうとなかろうと、観たって記憶がある以上、
少なくとも映画館でみたのか、テレビかDVDで観たのか、
ネット上で観たのか、それくらいは覚えているはず。
(わたしは覚えてた)
大学の講義でだったと思うけど
記憶は[そのもの]だけではなくて、
[そのもの]の周りにあった事柄がセットになっていて、
その事柄が鍵となって[そのもの]を思い出すことができるんだとか。
だから、映画って内容だけでなくそのときのエピソードも記憶しやすいメディアなのかもなぁって思った。
例えば、「一緒に見に行った相手が遅刻してきた」とか「ものすごいみんな笑ってたけど、そこは理解できなかった」とか。
「映画って、内容もそうだけど観たときのエピソードが強くない?」って
持論を説いてみたけれど、
残念ながら、彼はそういう記憶の仕方を映画ではしていないというか
意識されていないみたいで賛同は得られませんでした。
(;´д`)…
けど、映画の話題をさんざん機内でしていて、
彼は意識していないだけで、
印象にない映画についての補足情報は持っている印象。
...って、友だちまで分析かけながら会話する癖どうにかしたい。
メディアやコンテンツの捉え方はひとそれぞれ。
どんな捉え方があるのかっていうのは、
知っておくと何かしら役に立つ気がしている。
「メディアはメッセージである」
今回のギャラリートークのテーマは
「印刷メディアと身体」
スピーカーは、メディア論研究者の門林岳史さんと、
今回の展示主催者のひとり、齋藤達也さん。
齋藤さんが展示準備中に気を使ったというその図版に没頭できる仕組み。
紙の厚さや紙質、大きさなど。
その話題に関連して、
門林さんからメディア論者マーシャル・マクルーハンの定義した言葉が紹介された。
「メディアはメッセージである」
- メディアは情報を伝達する装置・媒体でありながら、メディア自体も情報である。
- メディアは情報を運ぶ媒体でありながら、人や社会に影響を与えるもので、本質は情報内容(コンテンツ)でなくメディアそのものにあるのでは?
という考えらしい。
ちょうど、自分が感じていたこととリンクして
すごく納得してしまった。
おもしろいなー。
大学の頃、メディア論とか全然おもしろくなかったけど
今となると、すごい興味深いなぁ。